食べて祈って恋をして、観たよ。

友達にメール書いてて気づいたけど、我々あまり恋愛映画は観ない。ダマーはモンド映画か西部劇等が好きで、私はカルトとかインディとか、シリアスなのが好き。それと正直に言えば権威に弱いんで名画といわれるものは押さえておきたい。というわけで、ジュリア・ロバーツの「食べて祈って恋をして」をレンタルリストに入れたのは珍しい事だった。

まぁ、サクセスとはいかないまでも、従来通りの彼女のイメージである元気/自分探し&恋愛とグルメ、観光。ラストは勿論お金持ちのいい男とハッピーエンド。しかし、野外ロケの日光で無惨に陰影やクマを作る大口の笑顔に無理してる感じがありました。別にアラフォーでもアラフィフでも、いうならアラカンだって、いつだって女性は恋をしたり迷ったり、輝いていていい。でも痛々しさを感じるというのは、いい年をして落ち着いたらいいのに、と呆れたりとか、そういう保守的価値観が…つい、いち女優の表面上の衰えに目をやってしまう、私自身のミッドライフクライシス的問題かも知れません。或いはその、ギリギリのライン、転換期を見定めたいのかもしれません。一時期、ダイアン・キートンがアラカン(言うまでもなく嵐寛寿郎ではありませぬ)の☆として恋愛映画に連続で主演したとき、はしゃぎ過ぎにみえたのもそれだろうか…でも、ウエストに大きなリボンの付いた膝上のスカートはやはり、観ている方がつらかった。やはり、明らかなばあさんだった。ジュリアは今後、どんな映画に出るのだろうか…。

しかし、ハリウッド映画などで描写されるアメリカの女はいつでもヒステリックで自己弁護的だな。決して謝らないし。(あとで反省することはある)それと、ストレートな白人(語弊が有れば、WASP)優越主義。つまり、世界は皆英語である、的な。結局何処行っても英語だし(それは映画としての言語の英語ではなく、イタリアもインドもバリも、何処の人もたどたどしく英語を使い、ジュリア(と観客)は自分が他の国の言葉を学びにいっているにも関わらず、鷹揚にそれを受け入れる。)そしてむかつくのが施し!バリで自分が少し世話になった母子家庭のために自分の友人たちにメールでお願いしてカネを集め、お家を建ててあげるのだ!「私のためにいつも開いてくれる誕生パーティのばか騒ぎのお金をこの有用で崇高なことに回して!」

誕生日パーティのお金でおうち建っちゃうんだね。