シーニュ、シニフィエ、シニフィアン、ド黒手袋

知人が「世の中には必要の無いものが沢山あるけど、群を抜いて要らないのが京極夏彦の黒手袋…」という発言をしていた。彼を記号化するとどんなものかと考えた。

変化したところとしないところがある。容姿は大幅に変わった。例えば、デビュー時はGacktみたいだったのが今や沢田研二ぐらいの豊満な体つきに。(彼の職業は作家であるから、体格の変化はその資質には本質的には関係ないが、ここでは彼の外見、上っ面に関してだけにしておきたい。)

ただ彼の…彼の黒手袋だけは、彼が登場してからずっと変わらない…ずっとそこに在る…

ウィキをそのまま転用し当てはめてみよう>シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のことで、例えば京極夏彦という言葉の「京極」「夏彦」という文字や「きょうごくなつひこ」という音声のことを言う。他方シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表される黒手袋のイメージや金髪、和服で巨体という概念ないし意味内容のことである。また、表裏一体となったシニフィアンシニフィエとの対のことを、「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ。

記号化すると京極夏彦は黒手袋に集約されるのか?世の中の全ての人間が黒手袋から京極夏彦を連想するかというと、それはせいぜい熱烈なファンだけだ、しかし、彼から黒手袋を取ったら、ただの金髪で和服の巨漢のおっさんにしかならない。

年月が経って、ただ彼の黒手袋だけが…私の中では、それには鋲が打ってある。対にするために私が打った。

このような事例は、実は沢山ある。皆さんと一緒にこれからも考えていきたい。