自分と向き合うことで他人を傷つけること

「あなたは自分に向き合っていますよ」と言ってもらった。その言葉はとても嬉しかった。私にとっては自分自身に対して誠実に生きているという意味だったので。でも、他者に対してはどうなのか。ひとに対して真摯に向き合うとは、どういうことか。または、向き合うべきではないのだろうか。苦しいことなんだろうか?傷つけるだろうか。…少なくとも強いるべきではない。ひとに、私がするようにお前もせよとは、言ってはいけない

ー自分と向き合うという言葉の意味は、とりあえずここでは「自分でも気付いていない、『本当は好きなのにやっていないこと』『本当は嫌いなのに我慢していること』『平気と思っているけど実は苦しいこと』といったことがらと感情を再確認すること」と思って下さい。ーhttp://u-drill.jp/archives/2009_08/28_142841.php

向き合うというのは、少なくとも正面から対峙して相手を認識する、同等に認識しあっている、という認識を持つことだ。自分以外の人間にそれは可能だろうか?どうやって認識の度合いを確認するのだろうか?

そしてやっぱり、強いるべきではない。私の場合は、好きというと語弊が有るけど、自分の形を探ることに興味が尽きず、結果生じる痛みにもある程度慣れている。嵩じた行動はときに他者に不快感や被害を与えることも、知っている。敢えて、意識してそうする事もある。言い換えればひとの心に土足で踏み込む、パーソナルスペースに無頓着/無責任である。しかしパーソナルスペースとはそもそも極めて自分勝手な、主観的な言い方ではないか?「ヤマアラシのジレンマ(エヴァではハリネズミ)」という寓話がある。「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く-wiki」てヤツだけど、私は遠藤淑子の解決法が一番しっくり来る。

「腹にはトゲは無い。抱き合って合わせよう」踏み込まずして最適な距離をどう測るというのだろうか。とりあえず息苦しく、暑苦しく…やがて同じ温度になることを信じて。腹にトゲを装着していたり、無意識についていたり、ついているからと嫌がるひとも抱き寄せて、テトにされるように…ナウシカのように超人ではないので、地味に噛まれ続ける。噛まれる価値がないと思えば振り払い、走り去るのを目で追う。自己憐憫じゃなく、しつこくこの繰り返しだ。強いるべきではないと繰り返し書いたが、やはり強いている。噛まれる価値を考えながら。ごめんなさい。