評価とジャッジ

昨日は全くまとまらないままツラツラと書き連ねて挙げ句に田沼意次まで出てきてしまった。ジャッジという単語が浮かんできたからだ。「あなたは人をジャッジしている!」かつて面と向かって言われた言葉だ。

それは勿論、喧嘩だった。当時まだ学部の二年生だった私が近隣のカフェに作品を展示してもらえるように動いているのを知った後輩が、それを止めるように進言してきたのだ。曰く「貴女はまだ未熟だから、学業に専念した方がいいんじゃないかと思う」

私は激高し、「邪魔しないで。私は私が認めた人の意見しか受け入れない!」と語気荒く答え、そして彼女は冒頭の台詞をいい、次いで「公共のスペースにヒドいものを展示しないで!貴女には才能なんて全然無い!」とズバッと痛いところを突いてきて、私を二日間自宅で泣かせたのだ…←口論では負けましたが、その後展示は厚顔にもしっかり行いました由

いい大人同士が、とは思う。私はおかげでゼロから心機一転、一皮剥けましたよ。と長らく思っていたのだが、最近の自分を振り返るとまだまだだったんだなあ…と思ったのです。彼女どうしてるかなあ。お互い社会人入学、かつ彼女は後輩とはいえ私より年長でギャラリーに長らく勤めた自負があった。当時そんな彼女の歴史なんか斟酌する余裕も、容認してあげる優しさも欠片も無かった。お互い自分の事だけで精一杯だった。

評価するのとジャッジするの、どう違うか。私の場合、50を基準にすると、評価は50以上で行われる。ジャッジはそれ以下で、49に満たないものは、排除する。評価は存在を容認するけど、ジャッジは、しない。徹底した排斥。スイカの種は白くて柔らかいものまで全部取り除く。身がぐじゃぐじゃになっても。しかも、なるべく遠くに飛ばす。種、食べる人もいるのにねえ。腹で芽を出すのが怖いからかな。