狭い!

ひとさまのブログ読んでて、ああ、私は心が狭い、容易に認めない、人を受け入れられない性分だなあとつくづく思った。(ちなみに、その人が私と同じだというのではないです。評価するけど受け入れるのとは違う、という話じゃなく、或は私はその垣根が曖昧かもしれない)なかなか褒めないのも、自分の評価軸を評価しているからだろう、そういうところの自己評価は徒に高い。自分を鑑みて…正確に客観的になるのは勿論不可能だけど、「この場合、私だったら…」としばし考えた。

手のひらサイズのキャパシティも一つだが、屈折している性格も大いに関与している。このところ数日書いている素直じゃないところ。ルサンチマン。これは戦後気質、サバイバル能力でもあり、ハングリー精神ともいえ、上昇志向だと思う…でも、向上心とはちょっと違うね。この単語からはちょっとした余裕、ポジティブで健康的な明るさを感じるわ私。私のは、周りを見ない、なりふり構わない人だ、と、他人に思われても通したい意地といいますか。やーだ狭い…。言い換えると、「あんたに理解出来るはずない」というほぼ根拠の無い見下し、驕り。踏み込まれる恐怖。「他人をジャッジ出来るの?」という問いが一番怖い。センシティブな問題だね。しかし見栄を切るのとはどう関係するのかしら。よく吠える小犬みたいなもんか。セントバーナードみたいにはいつ成れるのやら。あるいは田沼意次。「もとの濁りの田沼恋しき」と言われる頃には死んでるね。

従姉妹の部屋に永ちゃんのステッカーが燦然と輝いていたことを思い出したり。「銭ゲバ」は観なかったけど、「明日のジョー」は観に行くか。

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無意識にする行動というのが、我慢出来ない…出来うる限り自分の言動に理由を見いだしたい。別に立派なのんじゃなくていい、形にしたい。そうじゃないとやはりケダモノなんではないかという気がする。

昨日の踏切でのアクションも、誰にも気づかれない類いのもの、そういうひと、出来事、世の中にはゴマンとあるのだろうなと思うのもいとおかしき。こういうときとりわけ、隣に伝えられる人が居るのが嬉しいわ、と感謝しながら、ペラペラ喋りながらちらとみると、おや、耳がぱたりと閉じている。餃子になりかけているようだ。珍奇なニンゲンも居たものである。