取りこぼしていくもの

主体でしかあり得ない自分はどんなに客観的になろうとしても客体そのものにはなれない…せいぜい死後、自分のからだを離れて眺めるしか。それだって生者に伝えられないと。ものや人との距離を測るにも自分を基点にするしか無く、自分中心ってことからは逃れられない、とことん。進んでいく途中でとりこぼしていくものも沢山あって、横目に或いは尻目に進んでいくしかない。死して屍、拾うもの無し。なんちゃて

昨日はダマーの学校の映像に関するクラスを聴講。ちょっとこれって時間が凄い、午後四時から始まって一時間の休憩をはさみ十時まで。ヘコタレル。内容は実験的映画の上映と考察。この大学は私の居た美大より偏差値が(ずっと)高いせいか学生の発言に関するモチが違う(その喋りの速さも)発言度も成績に如実に反映されるので当然かー。四本観る。最後の一本は七十分の音楽のみのドキュメンタリーで、集中するのが大変だった。実は寝てしまった。どうもストーリーを期待してしまうようだ。